太宰府をゆく・・・(歴史探索編)
2009-11-16
11月15日(日)、太宰府市の市民の森通称「まほろばの森」にやってきました!
会場は森の中ですが
音楽ライブがあったり、いろんな体験コーナーがあったり
ゆるりとしたカッチリしてない感じがいいですね☆
ヤギがいたり、ゆでタマゴを無料で食べれたり
草笛を教えてくれる講座があったり、GBメンバーも楽しんでました。
そして12時スタートで「歴史探索クリーンウォーク」はじまります!!
太宰府には天満宮以外にもちょこちょこ歴史が眠ってるので
そうじしながら巡るというツアーですね~
ここは観世音寺のおそらく日本最古の国宝「梵鐘」
国宝なので鳴らされたりしないように金網がしてる(?)
と思うんですが
あっ!まさか・・・

いたずら心たっぷりの男子たちは
2回も国宝の音色を出してしまいました。
禁止の看板なんかはなかったですけどね~。

そして奈良時代に中国から日本に渡って唐招提寺を立てた鑑真が
日本に到着し(鹿児島県)、すぐこの太宰府の地に来ました。
観世音寺で日本ではじめて授戒を行ったのがこの戒壇院です。
※授戒とは、それを受けると正式に仏教界の僧と認められる
ようするにお坊さんになるための儀式ですね。
それまで日本では仏教が伝わったばっかりで決まりがなかった。
後に東大寺で正式に戒壇できるようになり
西の観世音寺と東の下野薬師寺で戒壇できるようにと
ここが戒壇院となったのです。
さてさて、西鉄電車にビブス着たまま乗り込みw
太宰府駅から向かうは光明禅寺。
枯山水で有名な寺です。

おしい!
もうちょっとで見ごろだったのに。

ん?
お坊さんか!?

いいえ違います。
最近ボウズ頭にしたアユムさんです。
でも自称コーヒー豆カットです。

その後は太宰府天満宮の参道で
みなで梅ヶ枝餅を食べて、西正寺に向かいました。
太宰府では天満宮の菅原道真が有名ですが
戦国時代の武将・高橋紹運という人がこの太宰府に眠っています。
ちょうど環境フェスタの会場の山が昔「岩屋城」で
そこで戦(いくさ)があって、討ち死にした武将です。
そんな戦国時代で城を攻められて討ち死にした武将なんて
けっこうな数いますが、この高橋紹運はちょっとした有名人だったんですね。
だから太宰府市内の地図のパンフレットには必ず墓が載ってますし
いたるところに「高橋紹運公墓 →あと1.0KM」と看板があったりします。
地元太宰府の住民にも、そして家臣にも慕われていた高橋紹運は
大友宗麟(おおともそうりん)という大名の家臣でしたが
時の権力者である大坂の豊臣秀吉に宗麟が会いにいったとき
「高橋紹運と立花宗茂という優秀なものがおりますのでぜひ秀吉様のご家来衆に~」
「よし、わかった!俺の家来にしちゃる」ということで朱印状まで出されたとか。
しかししかし、鹿児島からやってきた島津軍団に大友家は攻められます。
律義者の高橋紹運は、岩屋城に篭って迎え撃ちます。
その数、約2万人(島津) vs 約763人(高橋)
家来から慕われてた高橋紹運だけに
死ぬことを覚悟して戦に挑みますが、家臣も皆ついていくわけです。
死を覚悟した兵士が約700人ちょっと小さな山に立て篭もり
山のふもとから約2万人が攻め上ります。
山の上からは鉄砲だけでなく
石や岩や、丸太などなんでも使えるものは投げつけます。
死を覚悟した兵です、そりゃあ必死です。
島津軍団にも約3000人の死傷者が出たそうです。
ただ約2週間ほどの戦いのすえ、ついに力尽き
高橋紹運をはじめ、全兵士763人が討ち死にしたのです。

(岩屋城跡にある石碑:「嗚呼壮烈岩屋城址」と書かれてます)
というお話。
で、話は戻りますが、その西正寺は
岩屋城の戦いがはじまる直前に
高橋紹運が、1人の家臣に
「この城から出て、今から死ぬ私や皆を弔ってやってくれないか」
ということで泣く泣くこの家臣は城を出ます。
そして戦が終わったあと、戦場の亡き骸などを集め
この地に寺を作り、弔ったのです。
城が落ちた7月27日は皆の命日。
ということで毎年7月27日には戦争犠牲者の追悼法要が行われています。
そして落城後、攻めての総大将だった島津忠長と諸将は
高橋紹運の首を目の前にして
「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。
紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」
と言い、地に正座し涙を流したと伝わっているそうな。
戦上手であり、人徳にあふれる勇将だっただけに
家臣700人以上の人が「この人のために死ぬ!」と
覚悟したのは現代ではありえないことですね~。
太宰府にもこんなドラマが眠ってるのでありました~
余談ですが高橋紹運の長男は
東区の立花山にいた立花家に養子として行き立花家を継ぎます。
「お花」で有名な柳川の初代柳川藩主となるのです。
この紹運の息子の立花宗茂も父親に似て真っ直ぐな男で
関ヶ原の戦いも西軍(負けた方)に味方してしまい、領地没収され浪人になります。
熊本の加藤清正も宗茂の器量・性格が好きだったようで
家臣にと、誘いますが断られ続けますが、食客として迎えます。
しかし家康も彼の実力をよく知っていたので
将軍家の親衛隊長に抜擢され、のちのち柳川藩として大名に復帰するのでありました。
いずれも福岡の戦国時代の活躍した人たち。
過去も今も
点と点は繋がり、線になり歴史を作りますね。
現代も人を大切にしてそれが歴史になっていくのかなぁ。
まてよ、てことはグリーンバードも
いつか歴史の教科書に載ったりすんのかな??
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